新古今の景色(65)院政期(40)歌林苑(30)道因(4)勅撰集から

ここでは、死後に『千載和歌集』に思いも掛けず多くの自作歌を採り入れてくれた撰者藤原俊成の夢に現れ、感涙で喜びを表現した道因を偲びながら、『千載和歌集』及び『新古今和歌集』から幾つか味わってみたい。

 

         『千載和歌集』 巻第一 春歌上

       花の歌とてよめる 

62 花ゆへ(ゑ)に知らぬ山路はなけれども まどふは春の心なりけり)

   【花を訪ねるゆえに、案内しらぬ山路はないけれども、心は春のために迷うこと

    だよ】

 

         『千載和歌集』 巻第五 秋歌下

371 大井河ながれてを(お)つるもみぢ哉(かな)さそふは峰のあらしのみかは

    【大井川の流れ落ちる紅葉の見事なことよ。そうだ、紅葉はこの流れの水にも

     誘われるのだ。誘うのは嵐山の峰のあらしばかりだろうか】

 

         『千載和歌集』巻第十三 恋歌三 【百人一首入集】

      題不知

818 思ひわびさても生命はあるものを 憂きに堪え(へ)ぬは涙なりけり

    【つれない恋人を思い歎いて絶え入るばかりだが、それでも命だけはあるのに

     そのつらさに堪えきれないのは涙で、たえずこぼれ落ちることだよ】

  

         『千載和歌集』 巻第十八 雑歌下

      五月五日菖蒲をよめる

1182 今日(けふ)かくる袂に根ざせあやめ草 うきは我身にありと知らずや

     【節会の今日掛けるこの袂に根を生やせ、菖蒲草よ。泥(うき)は

      私の身にあると知らぬのか】

 

         『新古今和歌集』 巻第四 秋歌上 

      題しらず

414 山の端(は)に雲のよこぎる宵(よひ)のまは 出でても月ぞなお待たれける

    【山の端に雲が横切って流れる宵の内は 月が出たあとでもやはりつい

     心待ちされてしまうよ】

 

         『新古今和歌集』 巻第六 冬 歌   

      題しらず

586 晴れ曇りしぐれは定めなきものを ふりはてぬるは我が身なりけり

    【晴れたり曇ったりして、しぐれは定まらないものなのに、ただひたすら老い

     古びてしまったのはわが身だなあ】

 

         『新古今和歌集』 巻第九 離別歌 

      遠き所にまかりける時、師光(※1)餞し侍りけるに

888 帰りこむほどを契らむと思へども 老いぬる身こそ定めがたけれ

    【ほんの一時的な旅の別れと思ってこらえているけれど 年をとると涙もろく 

     なって、人との別れはもとより、涙もとどめることができないよ】

 

         『新古今和歌集』 巻第十二 恋歌二     

      入道前関白太政大臣(※2)家歌合に 恋の涙の歌

1123 くれなゐに涙の色のなりゆくを いくしほまでと君に問はばや

     【涙の色はこのように紅になりました。いったい幾回までさらに

      濃く染めたらいいのか、あなたにお聞きしたいものです】

 

(※1)師光(もろみつ):源師光村上源氏。生没年未詳だが天承元年(1131)頃

              の生まれか。建仁元年(1201)には71歳で生存。具親、宮内卿の父。右京権

    大夫正五位下法名は生蓮。『新古今和歌集』に3首入集。

 

(※2)入道前関白太政大臣九条兼実

 

 

参考文献:『新日本古典文学大系10 千載和歌集』 

       片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店刊行

    『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社

     

新古今の景色(64)院政期(39)歌林苑(29)道因(3)人生と歌

道因がいくら藤原北家の出とはいえ、摂関政治が栄華を誇った時代は遠くに去り、今や天皇の父・上皇が実権を握り台頭著しい武士との連携で政権を運営する院政期にあって、藤原北家の支流のさらに支流の出の道因にとって、位階の昇進は到底望めず、従五位上止まりでであった事は仕方のないことであろう。

 

それでも道因が83才で出家するまでは、俗姓の藤原敦頼で暮らしていたことは、出家直前の承安2年(1172)3月に藤原清輔が催した「暮春白河尚歯会(※1)和歌」の参加記録に「散位(※2)敦頼八十三歳」と残されているので、若くして世を捨てることなく、俗世間と折り合いを付けていたことが窺える。

 

そんな人生の中で、道因の歌壇での活動が開始されたのは晩年からとされ、座を連ねた主な歌合は・永暦元年(1160)「太皇太后宮大進清輔歌合」・嘉応2年(1170)の「左衛門督実国歌合」・安元元年(1175)及び治承3年(1179)の「右大臣兼実歌合」・治承2年(1178)の「別雷社歌合」などが挙げられるが、その中でも右大臣兼実や太政大臣の孫で権大納言正二位に至った左衛門督実国から声がかかるという所に、道因の藤原北家の出自が物を言っているといえるのではないか。

 

先に述べた長明の「63 道因歌に志深きこと」

https://k-sako.hatenadiary.jp/entry/2021/01/10/101000

 

に描かれた道因の歌の勝ち負けに拘り判者の藤原清輔の家まで押しかけて涙を流して抗議する、あるいは、死後に『千載和歌集』に自分の歌が16首入集した事に感激して撰者の藤原俊成の夢に現れてハラハラ涙を流すエピソードなど、私には何とも鬱陶しく、見苦しく思える。

 

しかし、家まで押しかけられた藤原清輔は自分が催した「暮春白河尚歯会和歌」会に道因を誘い、藤原俊成は夢に現れた道因の感激ぶりに心を動かされて『千載和歌集』への入集歌をさらに4首も増やしたばかりか、その息子の定家は、『千載和歌集』の入集歌から次の歌を「百人一首」に採り上げている。

 

82 思ひわびさても命はあるものを 憂きに堪へねば涙なりけり

   【恋の思いにこれほど苦しんでいても、それでも命は続いているのに、つらさに 

    堪えきれず、こぼれ落ちてしまうものは、涙であることよ】

 

こうしてみると、道因という人は、歌壇において、時には周囲を辟易させながらも、歌への一途さででは愛されたのだと思う。

 

また、今から840年前に、数え年ながら93才までの長寿をなした道因の生命力の源泉として歌への執着が挙げられるのではないか。

 

(※1)尚歯会(しょうしかい):高齢者を祝う会。敬老会。また、老人を請じて詩歌を作り遊楽を催す会合。七叟といって主人を入れて7人の老人が集まり、それ以外は相伴として列する。中国で845年に白楽天が催したのが初めで、日本では貞観19元年(877)に大納言南淵年俊が小野山荘で開いたのが初め。(この頃の日本と中国は密接だったのか)。

 

(※2)散位(さんに):律令制で位階だけあって官職についていない者。蔭位(おんに)により官位があって役職のない者、または職を辞した者などの総称。

 

 

参考文献:『新日本古典文学大系 千載和歌集

         片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店

     『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 百人一首角川ソフィア文庫

 

参考web:

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/douin.html

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sanekuni.html

新古今の景色(63)院政期(38)歌林苑(28)道因(2)出自は藤原北家

さて、無常の時代に歌への激しい執念を燃やして90余才まで生きた道因とは一体どのような人物であろうか。知られている略歴は次の通り。

 

道因の俗名は藤原敦頼。藤原北家の高藤の末裔で治部丞清孝の息子として寛治4年(1090)生に生まれ、没年未詳だが、治承3年(1179)「右大臣兼実歌合」に出詠して90才での存命が確認され、寿永元年(1183)年頃までには没と伝えられる。

極官は従五位上左馬助、承安2年(1172)に83才で出家。歌林苑会衆。『千載和歌集』初出、勅撰集40首入集、『千載和歌集』20首、『新古今和歌集』4首入集。

 

私は長明の「無名抄 63 道因歌に志深きこと」を読み、それ以来、道因は下級貴族の出で、若いときから俗世を見切って出家し、登連のように一途に歌に勤しんだと勝手に思い込んでいたが、何と藤原北家の出で出家ではないか。そして83才までは俗名の藤原敦頼でいたとは。

 

ところで藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男房前を祖とする藤原四家の一つで、房前の邸宅が兄の武智麻呂の邸宅より北に位置したことに由来する。

 

藤原四家間の政争は激しかったが、嵯峨天皇の信任を得た冬嗣が急速に台頭して文徳天皇の、冬嗣の子の良房が清和天皇の、良房の養子(甥)の基経が朱雀天皇村上天皇の外祖父となり、三代にわたって天皇外戚の地位を維持したことから、北家嫡流藤氏長者=摂政関白の基盤が固まり、それ以降はこの系統による「摂関政治」が後の道長・頼通父子の時代に全盛を極め、その子孫は五摂家に別れたが、公家の最高家格はひきつづきこの五家が独占した。

 

余談だが後白河法皇の命によって描かれた『国宝:伴大納言絵巻』から、藤原北家による摂関政治の基盤は、清和天皇の外祖父として強い影響力を発揮した藤原良房によって更に強固になったと読み取る人も少なくない。 

 

その「伴大納言絵巻」は清和天皇の御代の貞観8年(866)閏3月10日の夜、内裏の重要な門の一つ応天門が炎上し、その原因は時の大納言伴義男の放火によるとされた事件の推移と結末に至る物語を、12世紀後半に語られた説話を基に描かれている。

 

 ここで当時の政治的状況を見ると、『伴大納言絵巻』(小学館ギャラリー)は、「三代実録」や「大鏡」を引用して、当時の大納言伴義男は大伴氏の系統を引く有能かつ野心満々の実力者で、一方の嵯峨天皇の皇子で初代源氏の左大臣源信とは何かと対立し、二人の間にはしばしば不穏な動きが見られたが、応天門の変を起こすほどの理由は見られなかったとしている。

 

その上で「応天門の変」の結末を見ると、

①大納言伴義男は伊豆に配流、②左大臣源信は疑いが晴れずに死去、③右大臣藤原良相は辞職を請願しつつ死去、④太政大臣藤原良房だけがライバル視していた弟までも退けて政治権力を一手に握る。

 

この結末を導いたのは、清和天皇に最も影響力を与えることの出来る外祖父の藤原良房の進言(あるいは讒言)の結果であろうとの推測が通念となっているが、なぜなら、下図の天皇に対面する後姿の男が、駆けつけたままの烏帽子・直衣の略式服でありながら、寝所の髻(もとどり)も露な素顔の清和天皇に会えるのは、天皇の外祖父である藤原良房の他には考えられないという根拠から。

 

 

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(写真は『伴大納言絵巻』(小学館ギャラリー 新編名宝日本の美術12)より)。

 

  

参考文献:『新日本古典文学大系 千載和歌集

           片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店       

参考web:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8C%97%E5%AE%B6

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/touren.html

 

新古今の景色(62)院政期(37)歌林苑(27)道因(1)歌への執念

『無名抄』で鴨長明は、歌に命をかけて九十余才まで生きた老法師の凄まじい執念のありようを「63 道因歌に志深きこと」で見事に活写している。

 

【歌道への志の深さにおいては道因入道(※1)に並ぶ者はいません。入道は70~80歳になるまでは「どうか良い歌を詠ませてください」と毎月都から摂津の住吉神社(※2)まで歩いて祈願のお参りをしていた事からも歌への執心が半端ではなかったことを示しています。

 

また、ある歌合で、判者の藤原清輔が道因の歌を負けと判定した時に、わざわざ清輔の屋敷に出向いて涙を流しながら恨み言を述べた時など、会の主催者であった亭主は何とも言いようがなく「あれ程の大事に遭うとは思いもよりませんでした」と後で語っていました。

 

その道因が90歳になったころは耳も遠くなり、歌合の席で人を掻き分けて講師(※3)の脇にぴったり身を寄せて、老い屈んだ姿で一心に聞き入る様子はとてもいい加減な事とは思われませんでした。

 

そして、『千載和歌集』(※4)に道因の歌が選ばれたのは彼が亡くなった後であったのですが、それでも生前の彼の歌への志を考慮した撰者の藤原俊成が当初は18首を選んだのですが、その後、撰者の夢の中に道因が現れてはらはらと涙を流しつつ喜んだということで、心を動かさた俊成がさらに2首を加え、合わせて20首が採用されることになったのも、当然の事です】

 

と、長明は賛辞を込めて道因の歌への執念・姿勢を描いていますが、これは、長明自身が『千載和歌集』に一句選ばれただけでも有頂天になった心境を同じ『無名抄』の「12 千載集に予一首入るを喜ぶこと」で吐露した事と照らし合わせれば納得できます。

 

鴨長明の時代は、自ら歌人と自認する者にとって歌合で勝つこと、『千載和歌集』『「新古今和歌集』などの勅撰集に自分の歌が採用されることが何よりの生き甲斐であったのですが、このことは、人間の「承認欲求」が時代を超えて如何に根強いものであるかを物語っています。

 

 

(※1)道因入道(だういんにゅうどう):俗名は藤原敦頼。寛治4年(1090)生まれで没年未詳。承安2年(1172)出家、治承3年(1179)には90歳で生存、寿永元年(1183)頃までには没。治部丞清孝の息子、従五位上左馬助。歌林苑会衆。『千載和歌集』初出、勅撰集40首入集。『千載和歌集』20首、『新古今和歌集』4首入集。

 

(※2)住吉神社大阪市住吉区住吉にある元官幣神社。摂津一の宮

 

(※3)講師(こうじ):歌合の席で参加者の歌を詠みあげて披露する役。

 

(※4)『千載和歌集』:後白河法皇の命で藤原俊成が撰集した勅撰和歌集で文治3年(1187)に完成。20巻、約1200首を収める。

 

参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫

 

     

 

新古今の景色(61)院政期(36)歌林苑(26)登蓮(3)

さて、鴨長明兼好法師という希代の識者を注目させた登連法師とは一体どのような人物であろうか、と、あれこれ調べてみたが、出自・系譜・生没年未詳で、判明したのは以下の事項。

 

・治承2年(1178)頃は生存。中古六歌仙、歌林苑会衆の一人。家集『登連法師集』。『詞華集』初出、勅撰入集19首、そのうち『千載和歌集』に4首、『新古今和歌集』に1首入集。

 

・仁安2年(1167)太皇太后宮亮経盛朝臣家歌合、承安2年(1172)広田社歌合、治承2年

(1178)別雷社歌合などに出詠。


・『歌仙落書』に歌仙として選ばれて八首の歌を採られて「風体たけ高くきらきらしく

また面白くも侍るなるべし」と賞讃されている。

 

・『新古今和歌集』・『続古今和歌集』所載歌によれば、筑紫へ下ったことがあり、この時、俊恵・源頼政・祐盛法師が悲別の歌を詠んでいるとされる。

 

次に『千載和歌集』並びに『新古今和歌集』に入集した登連の歌を味わいたい。

 

        『千載和歌集』  巻第十六 雑歌上

       年ごろ修行にまかり歩きけるが、帰(かへ)りまうで来て

       月前ノ述懐といへる心を読める

995 もろともに見し人いかになりにけん 月は昔にかはらざりけり

    【あの時一緒に見た人はどうなってしまったのだろう。月は昔と

     一向に変わっていないのだが】

 

        『千載和歌集』 巻第十七 雑歌中 

       述懐の歌よみ侍ける時

1121 かくばかり憂き世の中を忍びても 待つべきことのすえにあるかは

     【これほど憂い世を堪えて生きても、待った方がよいことが未来に

      あるだろうか。ありはしないものを】

 

        『千載和歌集』 巻第十八 雑歌下

       かさぎのいわ(は)や(笠置の岩屋)

1179 名にしを(お)はば常はゆるぎの森にしも いかでか鷺の寝(い)は

     やすく寝(ぬ)る

     【名の通りであるなら、いつも揺れているという「ゆるぎの森」で、どう

      して鷺は安眠できるのだろうか】

 

        『千載和歌集』 巻第十九 釈教歌

1235 おどろかぬ我が心こそ憂かりけれ はかなき世をば夢とみながら

     【迷いから覚めない自分の心は何ともいやなものだ。はかない世を夢と

      みなしているのに】

 

        『新古今和歌集』 巻第九 離別歌

882 帰りこむ ほどをや人に 契らまし しのばれぬべき わが身なりせば

    【もし、わたしが人に思い出されるような者だったら、帰ってくる時を言って

     再会を約しもしようが~わたしはそれほど人になつかしく

     思い出されるような人間とはおもわれません】

 

 

参考文献:『新日本古典文学大系 千載和歌集

            片野達郎 松野陽一 校注 岩波書店

            『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮出版

参考web:千人万首 asahi-net  

  https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/touren.html

新古今の景色(60)院政期(35)歌林苑(25)登蓮(2)兼好法師の視点

次に登連法師の「ますほのすすき」の逸話についての兼好法師(※1)の視点を『徒然草~第百八十八段 』でみてみたい。

 

【一事を必ずなそうと思えば、他のことが駄目になることを惜しんではいけない。人の嘲りも恥じるべきではない。万事を犠牲にしなければ一つの大事をなすことは出来ない。

 

人の多く集まっている中で、ある者が、『ますほの薄(すすき)、まそほの薄などいふ事がありますが、わたのべの聖がこの事を伝へ詳しく知っているようです』と語ると、その座にいた登蓮法師がこれを聞いて、雨降が降っているにもかかわらず、『蓑笠があればお貸し願いたい。かの薄のことを教わりに、わたのべの聖のもとに尋ねてまいりたいので』と言うのを、『それにしてもあまりにも慌ただしい。雨が止んでからにされては』と皆が留めるのを『とんでもないことを仰いますな。人の命は、雨の晴れ間を待ってくれるものでしようか。私も死に、聖も亡くなってしまえば、尋ねて聞く事もできません』と、言い残して雨の中を駆け出してゆき、聖から習ったと申し伝えたという事こそ、大したことであり、またありがたいことです。

 

『敏(と)き時は則(すなわ)ち功あり』(※2)と論語にも書かれているそうです。この薄(すすき)について知りたいと思った登蓮法師のように、悟りを開いて人間として完成する機縁となる一大事の因縁を思うべきです】

 

同じ登連法師の振る舞いについて、自らを数寄者と任じる長明は「数寄者はこうでなくては」と称賛しているのに対して、人生の観察者たる兼好法師は、登蓮法師の素早い行動力を『論語』を引き合いに出して「人生訓」の例えとして述べている。 

 

(※1)兼好法師:弘安6年(1283)頃~正平7年(1352)以降。鎌倉末期の歌人。俗名:卜部兼好(うらべかねよし)。先祖が京都吉田神社の社家であったことから、後世、吉田兼好ともいう。初め堀川家の家司、のちに後二条天皇に仕えて左兵衛佐に至る。天皇崩御後に出家・遁世。歌道に志して二条為世の門に入り、その四天王の一人とされた。『徒然草』の他自選歌集がある。

 

(※2)『敏き時は則ち功あり』:機敏であれば成功する。弟子の子張が孔子に仁を問うた中で、子曰(のたまわ)く「・・・・・敏なれば則ち功あり・・・・」とある。

 

参考文献:『新潮日本古典集成 徒然草木藤才蔵 校注 新潮社

 

新古今の景色(59)院政期(34)歌林苑(24)登蓮(1)鴨長明の視点

歌林苑会衆の登連法師の「ますほのすすき」の逸話は鴨長明の『無名抄』、兼好法師の『徒然草』などに引用され、「我こそは数寄者」と自認する人たちの関心を集めていたようだ。先ずは、『無名抄』から鴨長明の視点を窺うことにした。

 

「無名抄 16 ますほのすすき」

 

【雨の降る日に、ある人のところに気心の知れたもの同士が集まって、古い事などを語っているうちに、『ますほのすすきというのは、どんなすすきなのだろう』という話になり、ひとりの老人がおぼつかない様子で『渡辺((※1)というところに、これに詳しい聖がいると聞いたが』と切り出した。

 

一座に加わっていた登蓮法師(※2)はこれを耳にして急に言葉少なになって考え込んでいたが、いきなり邸の主人に『蓑と笠を暫くお借りしたい』と申し出たので、主人が訝りながらも蓑と笠を取り出すと、登蓮法師は座を立って蓑を纏い藁沓(わらぐつ)を履いて今にも出かけそうな様子なので、皆が怪訝に思ってどういう事かと聞くと、『これから渡辺へ向かいます。このところずっと疑問に思っていた事を明らかに出来る人がいると聞いたうえは、どうしても会って直に尋ねたい』と云う。

 

一座の人は呆気にとられながら『それにしても、雨が止んでからでもよいのでは』と引き留めにかかったが、登蓮法師は『なんと愚かな事を言われるものか。自分の命も他人の命も、雨が晴れるまで待つ、などということはありません。ともかく今は静かにお待ちください』と言い置いて雨の中を出かけて行った。並外れた数寄者(※3)である。

 

さて、思い通りに尋ねた聖に会えて年来の疑問を明らかにした登蓮法師はこの事を大切に秘蔵して滅多に人に云う事はなかった。

 

このことを、登蓮法師が渡辺の聖の一代目の弟子と数えて、私は三代目の弟子として伝え聴いて知っています。この「すすき」、実はは同じようにみえて数多あります。ますほのすすき、まそをのすすき、まそうのすすきといって、三種(みくさ)あります。

 

ますほのすすきというのは、穂が長くて一尺ほどあるものをいい、かの、ます鏡(※4)のことを万葉集では十寸の鏡(※5)と書いていることを知っておくべきです。

 

まそをのすすきというのは、真麻(※6)の材料のことです。これは源俊頼朝臣の歌(※7)にも詠われています。「まそをの糸を繰りかけて」とあるようですが。糸などが乱れたような様子をしたすすきのことです。

 

まそうのすすきとは「まことに蘇芳(※8)の色である」という意味で、真蘇芳(ますおう)のすすきというべきところの言葉を略したものです。色の濃いすすきの名前です。

 

これは古い歌集などに確かにみられるという事ではないが、和歌のしきたりとしてこうした古い言葉を用いるのはよくあることです。

 

これらのことは、多くの人に知られているわけではないが、みだりに伝えることでもないのです】

 

この文章から推し量るに、みだりに人に伝えるべきではないとされる「ますほのすすき」について、長明が渡辺の聖の登蓮法師から数えて三代目の弟子として伝授されたこと、また、当時は和歌において「秘伝」として伝授する仕組みが存在していた事がわかる。

 

さて、この「ますほのすすき」に関する秘伝を登蓮法師から伝えられて長明に授けたのは誰であろうか。私の推測では、登蓮法師が俊恵の主唱する歌林苑会衆であった事から、渡辺の聖の二代目の弟子として伝え聞いた俊恵が若き愛弟子の長明に伝えたものと思われる。

 

また、ますほのすすきについての疑問を明らかにするために雨にも拘わらず渡辺の聖の元に走った登蓮法師の振舞を、自らを数寄者と任じる長明は「数寄者はこうでなくては」と称賛しつつ、自らを渡辺の聖の三代目の弟子として秘伝を伝授してくれた師・俊恵への深い敬愛の念も窺える。

 

(※1)渡辺(わたのべ):「渡辺」または「渡部」と書く。摂津の国西成郡にあっ

    た地名で難波江の渡り口の地。

(※2)登蓮法師:生没年未詳。治承2年(1178)頃には生存、出自未詳。歌林苑

    会衆。家集『登蓮法師集』。『詞花集』以下の勅撰集に19首入集。『千載和

    歌集』4首、『新古今和歌集』1首入集。

(※3)数寄者(すきもの):風雅な人。この場合は和歌を好む人。

(※4)ます鏡:真澄の鏡の略で少しの曇りもなく澄んでいる鏡のこと。

(※5)十寸の鏡:現存伝本の万葉集には見られない。

(※6)真麻:イラクサ科の多年草の苧(からむし)。茎の繊維は織物の材料になる。

(※7)源俊頼朝臣の歌:堀川百首の「薄」の題で源俊頼が「花すすき まそほの糸を

    繰りかけて 絶えずも人をまねきつるかな」。 

(※8)蘇芳(すおう):紫がかった濃い紅色。

 

参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫