新古今の景色(56)院政期(31)歌林苑(21)前大僧正覚忠(1)

      『千載和歌集』 巻第十九 釈教歌

   三十三所観音拝(をが)みたてまつらんとて所々にまいり侍りける時、

   美濃の谷汲(たにくみ)にて油の出づるを見てよみ侍りける

 

1211 世を照らす仏のしるしありければ まだともし火も消えぬなりけり

     【世を照らすみ仏の霊験があったので、いまでも灯火は消えずに

      輝いているのだなあ】

 

この歌は、前大僧正覚忠が応保元年(1161)に熊野那智から御室戸まで観音霊場三十三所を巡礼した時、美濃の谷汲にある天台宗華厳寺(※1)で詠んだもので、850年を経た今日まで受け継がれている「西国巡礼(西国三十三所の観音巡礼)」の事始めとされている。

 

ところで、俊恵が白川の僧坊に開いた歌林苑には、源頼政・賀茂重保・鴨長明・二条院讃岐・殷富門院大輔などが集ったが、会の中心は「中流貴族・武士・神官・遁世者など、上流サロンに列する機会が比較的乏しい人が多く、女流歌人も含めて年配者が圧倒的で、どちらかというと在野的で時流から外れがちな層の人が参加することが多かった」とされるなかで、前大僧正という当時の大納言に準ずる最高の僧階に登り詰めた覚忠が歌林苑の会衆であったとことは、なかなか興味深いものがある。

 

華厳寺(※1):けごんじ。岐阜県揖斐(いび)郡谷汲にある天台宗の寺。山号は谷汲山。延暦17年(798)豊然開基。西国巡礼第33番目の札所。

 

参考文献:『新日本古典文学大系10 千載和歌集

           片野達郎、松野陽一 校注 岩波書店刊行

     『鴨長明』 三木紀人 講談社学術文庫

 

新古今の景色(55)院政期(30)歌林苑(20)殷富門院大輔(3)

 

見せばやな雄島(おじま)の海人の袖だにも 濡れにぞ濡れし色は変はらず

【あなたに私の袖をお見せしたいわ。あの松島の雄島の漁師の袖さえも、濡れに

 濡れたとしても色は変わらないというのに、私の袖は、血の涙で真っ赤に

 染まってしまいました】

 

何とも情熱的なこの歌は藤原定家により『百人一首』90番に採られた殷富門院大輔の歌である。ところで殷富門院大輔と藤原定家の交流はどのようなものであったか、先ずは、定家の『明月記』の文治4年(1188)9月29日の野分(※1)の記述からたどってみたい。

 

[定家が殷富門院に参上して、女房大輔としばし歓談しているうちに、気がつくと周囲に人がいなく余りの静けさに退出しようとしたところに、定家の友人で歌人の藤原公衛(※2)がやってきて「寝ようとしても、強い風の音や、庭の木の葉の落ちる音がうるさくて眠れないので騎馬でやってきた」という声に、大喜びした女房達があちこちの部屋から集まって、狂言(戯れ言)・連歌・和歌などで一夜を明かした]

 

このような若い貴族と女房達との交遊は殷富門院(後白河院皇女亮子内親王)御所では日常の光景で、そんな中で、応保2年(1166)生まれの若い定家は、大治5年(1130)生まれの多作で「千首大輔」と呼ばれた年上の女房歌人から歌の面で大きな影響を受けたとされる。

 

次に歌の面での二人の繋がりを定家の家集『拾遺愚草』から探ってみたい。

 

   殷富門院、皇后宮と申しし時、まゐりて侍りにしに、権亮(公衛)・大輔など

   さぶらひて、夕花といふことをよみしに

 つま木こりかへる山ぢのさくら花あたら匂をゆくてにやみる

 

次に定家が大輔と共に摂津の四天王寺に参った時に詠んだ歌から

   文治之此、殷富門院大輔天王寺にて十首歌をよみ侍りしに、月前念仏

 西を思ふ涙にそへてひくたまに光あらはす秋の夜の月

 

さらに、『拾遺愚草』には、文治3年(1187)に大輔から求められて定家が詠んだ百首歌が「皇后宮大輔百首」として収録されている。

 

建久4年(1193)2月に定家が母の美福門院加賀の喪に服していた折に大輔が弔問の歌を贈った事も付け加えておきたい。

 

(※1)野分(のわき):210日・220日頃に吹く暴風。台風。あるいは秋から初

冬にかけて吹く強い風。

 

(※2)藤原公衛(ふじわらのきんひら):保元3年(1158)生まれ建久4年(1193)36才にて没。公季流、右大臣公能の四男。極官は従三位左近中将。俊成・寂蓮・定家ら、御子左家歌人と親交があった。『千載和歌集』初出、『新古今和歌集』4首入集。家集『三位中将公衡卿集』。

 

参考文献:『ビギナーズ・クラシック日本の古典 百人一首(全)』

         谷 知子編 角川文庫

     「藤原定家の時代-中世文化の空間-」五味文彦著 岩波新書

新古今の景色(54)院政期(29)歌林苑(19)殷富門院大輔(2)

殷富門院大輔は、藤原定家西行源頼政・寂蓮(※1)・隆信(※2)など多くの歌人と親交を深めたとされるが、ここでは寂蓮・隆信との交流の一端を紹介したい。

 

嘉応2年(1170)の『住吉社歌合』は、和歌の神社として尊ばれていた住吉社の社頭・藤原敦頼が催したもので、歌題「社頭月」・「旅宿時雨」・「述懐」の三題を殷富門院大輔・小侍従、中務少輔定長(後の寂蓮)を含む50人の歌人が番えて競ったもので、判者は藤原俊成であった。


この歌合から当時は前斎宮大輔と名乗っていた殷富門院大輔と定長が競った「述懐」から、定長の出家への迷いが感じられるとされる次の歌を採りあげたい。

 

       左勝       前斎宮大輔
すみよしのなごのはまべにあさりして けふぞしりぬるいけるかひをば

【住みよしという名で名高い、住吉の名児の海の浜辺で魚や海藻などをとって、

今日生きている価値を知ったことだ。】

 

       右        定長

なげかじな よはさだめなきことのみか うきをもゆめとおもひなせかし

【嘆くことはないことよ。この世の中は無常であることだけであろうか。

憂きことをも夢と思うことにせよ。】

 

判詞       藤原俊成
左歌、こころしかるべし、すがた又ひとつの体なるべし、右歌も、ひとつの俗にちかきすがたなれど、ことのみか、と、おき、なせかし などいへる、なほ むげにすてたることばなり、左をこそはかつと申すべく

【左の大輔の歌は、趣がふさわしい。表現の方法もまた一つの様式である。右の定長の歌も、一つの世俗的に近い表現の仕方であるが、「ことのみか」と置き、「なせかし」と読んでいる。やはり捨てた表現である。左の大輔の歌を勝ちとするのがふさわしい。】

 

次に『殷富門院大輔集』から、定長が出家する直前の承安2年(1172)に詠まれたとされる、殷富門院大輔・定長・隆信の間で交わされた贈答歌を引用したい。

 

   9月つごもりに、ひとびと秋のわかれをしむうたどもよまれしついでに
ゆく秋のわかれはいつもあるものを けふはじめたる心ちのみする
【去って行く秋との別れは毎年あるものを、今日初めてのような気持ちばかりすることよ】

 

    かくてものがたりなどしくらして、かへられしに
たづねくるかひこそなけれゆく秋の わかれにそへてかへるけしきは
【訪れて下さった価値がないことよ。去って行く秋との別れに加えて、帰って行く様

子は】

 

    かへし         右京権大夫たかのぶ
ゆく秋のわかれにそへてかへらずは なにゆゑきみがをしむべき身ぞ
【去って行く秋との別れと共に帰らなかったら、どうしてあなたが惜しんでくれる我 が身であろうか】

 

    又           なかつかさのせうさだなが
かぎりあらむ 秋こそあらめ我をだに まてしばしともいはばこそあらめ
【秋には終わりがあるから良いのであろう。私にもうしばらく待ってほしいとのことであれば結構であるが、そうでなければ秋と共に帰ることよ】

 

まさに、この贈答歌の頃の定長と隆信が、鴨長明が『無名抄』「64 隆信・定長一双のこと』で述べた二人の力が伯仲した時期に該当するのであろうか。

https://k-sako.hatenablog.com/entries/2015/05/01

 

(※1)寂蓮:俗名は定長(藤原):保延5年(1139頃)〜建仁2年(1203)。長家流。僧俊海の息子で伯父俊成の猶子となるが定家の出生により出家して寂蓮と称す。中務少輔従五位上。和歌所寄人。『新古今和歌集』撰者となるが撰進前に没、35首入集。享年六十余歳。

 

(※2)藤原隆信:康治元年(1142)〜元久2年(1205)。長良流、為経の息子。母は美福門院加賀で定家の異父兄。右京権太夫正四位下。似絵(肖像画)の名手。晩年に出家して号を戒心。和歌所寄人。『新古今和歌集』3首入集。享年64歳。

 

参考文献: 『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版

新古今の景色(53)院政期(28)歌林苑(18)殷富門院大輔(1)

 

鴨長明の時代の「女房」とは宮中や院中でひとり住みの房(部屋)を与えられた高位の女官を指し、現在のキャリアウーマンを意味した。彼女たちは内裏や院御所に出仕して天皇中宮上皇女院の傍近くに仕え、時に高位貴族たちと丁々発止のやり取りを交わしながら、同僚女房とは切磋琢磨して競い合う日々を生きたのである。

 

当時の最高権力者の後鳥羽院が、和歌の復興を高く掲げ、特に女流歌人の輩出を推進した事もあって、鴨長明は「無名抄」に歌壇で評価の高かった幾人かの女房歌人についてに記しているが、ここでは歌林苑の主唱者・俊恵法師の言葉を引用した大輔(殷富門院大輔)と小侍従について述べてみたい。

 

65 大輔・小侍従一双のこと

 

「近年の女流歌人の上手としては大輔と小侍従が歌壇で取りざたされています。大輔の方は歌に対する理論や知識の習得などに特別に力を入れ、飽くことなく何時でも何処でも粘り強く歌を詠む姿勢が優れています。

 

対する小侍従は、聴く人がはっと目を見張るような華やかな状況を読むことに優れており、贈答歌においては贈られてきた元の歌からまさにこの事こそが肝心だと思われるところをおさえて返歌を詠む心映えは誰も敵うものがありません」

と、俊恵法師は私に申しました。

 

因みに殷富門院大輔と小侍従は母方の従姉妹にあたる。

 

殷富門院大輔((いんぷもんいんのたいふ)は生没年不詳であるが、大治5年(1130)頃に生まれ、正治2年(1200)頃に70才で没したとされる。父は藤原北家勧修寺流従五位下藤原信成、母は従四位式部大輔菅原在良の娘。後白河院皇女亮子内親王(殷富門院)に出仕し、建久3年(1192)の女院落飾に従い出家。女房三十六歌仙の一人。家集『殷富門院大輔集』、『千載和歌集』初出で5首入集、『新古今和歌集』10首入集。

 

次に入集歌から『千載和歌集』から1首、『新古今和歌集』から3首を掲げてみた。

 

       『千載和歌集』 巻第十二 恋歌二

741 思ふこと忍ぶにいとど添ふものは 数ならぬ身の歎きなりけり

    【思い悩むことを人目につかぬようにこらえているのに いよいよ加わるの 

     は物の数でもないわが身の歎きであるよ】

 

       『新古今和歌集』 巻第一 春歌上

    百首歌よみ侍りける時、春の歌とてよめる

73 春風の 霞吹きとく 絶えまより みだれてなびく 青柳の糸

   【一面にたなびいている霞を春風が吹いて解(ほど)く、その絶え間から、糸の

    ように乱れて靡く青柳よ】

 

       『新古今和歌集』 巻第八 哀傷歌 

     久我(こがの)内大臣(源雅道)春の頃うせて侍りける年の秋、土御門(つ

     ちみかどの)内大臣源通親)、中将に侍りける時に、つかはしける

790 秋深き、寝覚めにいかが、思ひ出づる はかなく見えし 春の世の夢

    【現代語訳:秋も深まったこのごろの寝覚めに、あなたはどのようにお思い出

     しのことでございましよう。お父様が春の世に見る夢のようにはかなくお亡

     くなりになったというお悲しみを】

 

       『新古今和歌集』 巻第十三 恋歌二

     題しらず

1228 何かいとふ よもながらへじ さのみやは、憂きにたへたる 命なるべき

     【現代語訳:どうしてそうお嫌いになるのですか、とても生き永らえること

      はできないわたしですのに。命はそれほどつらさに堪えていられるもので

      しようか】

 

 

参考文献:『無名抄 鴨長明』久保田淳 訳注 角川文庫

     『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮出版

     

(※)当ブログで参考文献の活用などでいつもお世話になっています東京大学名誉教

   授で国文学者の久保田淳氏の文化勲章受章を心からお喜び致します。

新古今の景色(52)院政期(27)歌林苑(17)二条院讃岐

わが袖は 潮干(しほひ)に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾くまもなし

【私の袖は、引き潮の時にも見えない沖の石のように、

あの人は知らないでしようが 悲しみの涙で乾くひまもありません】

 

上記は、二条院讃岐が二条院の内裏歌壇にデビューし内裏御会などに参加していた頃に出詠して「沖の石の讃岐」と称されるほど高い評価を得た歌で、後に『小倉百人一首』並びに「『千載和歌集』 巻第十二 恋歌二」にも採られている。

 

 

二条院讃岐は源頼政の娘で仲綱の同母妹。生没年は未詳だが、永治元年(1141)頃に生まれ、若い頃に二条院に出仕し、二条院没後は九条兼実の娘で後鳥羽院中宮(宜秋門院)任子に仕え、後に出家して健保5年(1217)に76歳で没したとされる。因みに宜秋門院丹後は従姉妹にあたる。家集『二条院讃岐集』。

 

二条院讃岐の歌人としての足跡は、永万元年(1165)頃に藤原顕輔が私撰した『続詞花集』に入集したのを始め、後鳥羽院花壇では正治2年(1200)の「正治初度百首」、建仁元年(1201)の「千五百番歌合(※1)」に名を連ね、『千載和歌集』に4首、『新古今和歌集』では式子内親王、俊成卿女に次ぐ16首が採られている。

 

下記は『新古今和歌集』入集歌から。

 

                                巻第二 春歌上

                百首歌たてまつりし時、春の歌に

130 山たかみ 峯のあらしに 散る花の 月にあまぎる あけがたの空

    【山が高いので、激しく吹く峯の山風に花が散り、

                 その花吹雪が月を曇らせている明け方の空】

 

 

                                 巻第六 冬 歌 

               千五百番歌合に、冬の歌

590 世にふるは 苦しきものを 真木の屋に 安くも過ぐる初しぐれかな

             【この世を生きてゆくのは苦しいことなのに、真木の屋にいかにも心安く音を

                たてて通り過ぎてゆく初しぐれですね】

 

(※1)千五百番歌合:後鳥羽院が当代の30人の歌人に百首ずつ詠進させて千五

百番とし、俊成、定家、良経、顕昭慈円など十人に判をさせた歌合。建仁2年(1202)から翌年にかけて成立。『新古今和歌集』の和歌資料となった。

 

参考文献:『新古今歌人論』安田章生著 桜楓社

     『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮出版

新古今の景色(51)院政期(26)歌林苑(16)平経正(2)

平経正の父平 経盛(たいら の つねもり)は、平忠盛の三男で清盛の異母弟に当たるが、生母の身分の低さもあって当初から異母弟の教盛・頼盛よりも昇進は遅かったが、父・忠盛から歌人としての素養を受け継ぎ、仁和寺御室守覚法親王鳥羽天皇第五皇子)の仁和寺歌会や二条天皇の内裏歌会などに座を連ね、さらに自らも歌合を催し、藤原清輔とも親密に交流していた。『千載和歌集』にはよみ人知らずとして1首入首している。

 

そのような父経盛から歌人としての素養を受け継いだ経正は、幼少時に仁和寺覚性法親王に仕えた事もあって仁和寺歌会を始めとして『住吉社歌合』『広田社歌合』『別雷社歌合』に出詠、また自らも藤原俊成を判者に迎えて歌合を催し、『千載和歌集』に(読み人しらず)で次の2首が入集している。

 

       『千載和歌集』 巻第三 夏歌     よみ人知らず

199 山ふかみ火串(ほくし)の松はつきぬれど 鹿に思ひを猶かくるかな

    【山深くまで入ったので火串の松明も尽きてしまったけれど、鹿への

     思いをまだ掛け続けていることだ】

 

       『千載和歌集』 巻第四 秋歌上     

     題不知                よみ人知らず

246  いかなればうは葉をわたる秋風に した折れすらむ 野辺のかるかや

    【一体どういうわけで上葉を吹き渡る秋風に下折れしたりするのだろう、

     野辺の刈萱は】

 

方や以仁王を奉じて平家追悼の兵を挙げるも宇治川の合戦で治承4年(1180)に敗死した源頼政・仲綱親子、方や寿永3年(1184年)の一ノ谷合戦において、川越重房の手勢に討ち取られて敗死した平経正

 

乱世の時代、この3人が歌林苑会衆としてどのように交流したのか想像するだけでも興味は尽きない。

 

参考文献:『新日本古典文学大系10 千載和歌集

     片野達郎、松野陽一 校注 岩波書店刊行

 

 

新古今の景色(50)院政期(25)歌林苑(15)平経正(1)

平忠盛の三男で清盛の異母弟修理太夫(しゅりのだいぶ)経盛の嫡子・皇后宮亮経正は、平家一門の都落ちに際して、幼少時に過ごした仁和寺で御室(※)覚性法親王鳥羽天皇第五皇子)に琵琶の才能を認められて賜った名器「青山」を返上するために仁和寺に駆けつけ、御室守覚法親王後白河天皇第四皇子)との別れに際して歌を交わしたエピソードが「平家物語」に次のように語られている。

 

[皇后宮亮経正は、幼少時に仁和寺の御室で過ごした事から、都落ちという慌ただしさの中の中にあっても、名残を告げようと侍5、6騎を伴に仁和寺に馳せ参じ、門前で馬から下りて『一門運尽きて今日都を退去することになり、この世に思い残すことは、ただただ君とのお名残だけです。』と中庭の白洲にかしこまれば、御室は速やかにお出ましになって、御簾を高く上げて『これへ』と召され、経正は御琵琶「青山」を御前にさしだして『御室で過ごした折に頂いた「青山」』、長く手元に置いて名残が惜しいものの、我が国においてこれほどの名器を田舎に埋もれさせるのは悔しゅうございます。万が一平家に運が開けて再び都に立ち帰る事ができましたらその時こそ再び頂戴させて頂きます』と泣く泣く申し上げれば、御室は哀れと思い、一首の御詠歌をお書きになって経正に下された。

 

   あかずしてわかるる君が名残をば のちのかたみにつつみてぞおく

   【別れがたく去ってゆくそなたの名残のこの琵琶を、後々までの形見として

    大切に包んでおくぞ】

 

  経正硯を下されて

   呉竹のかけひの水はかはるとも なおすみあかぬ宮のうちかな

   【お庭先の竹の筧(かけひ)の水は流れてもう昔に水ではありませぬが、

    それでもいつまでも変わらず澄んでおります。私もいつまでもこの御所に

    住んでお仕えしとうございました】]

 

(※)御室:宇多法皇の仙洞御所がありそれを御室と呼んだことから仁和寺の別称。

   またはその住職。代々法親王が入寺し、門跡寺院の首位にあった。

 

参考文献:『新潮日本古典集成 平家物語 中』水原一 校注 新潮社