新古今の景色(28)院政期(3)源頼政(3)父・仲政(1)歌人一家を成す

清和源氏源頼光の曾孫に当る頼政の父・仲政(仲正とも書く)の生没年は未詳だが、三河守頼綱を父として治暦2年(1066)頃生まれ、崇徳天皇御世の保延3年(1137)以後に没したとみられる。

 

清和源氏源頼政の直系略図】 源満仲→頼光→頼国→頼綱→仲政→頼政→仲綱

 

仲政の武士としての動静や事績はつまびらかではないが、堀河天皇の応徳3年(1086)の蔵人所雑色を皮切りに嘉保2年(1095)に六位蔵人、永長元年(1096)に検非違使に補され、その後は皇后宮大進を経た後下総守に任じられて下向し、さらに下野守を経て従五位上兵庫頭に至っているが、この背景には摂関家白河院及び鳥羽院の信任があったとされる。

 

仲政はこれらの任務の傍ら、藤原俊忠・家成・顕広(後の俊成)などの中級貴族と歌による親交を深めて歌合に連なり、その傍らで頼政を筆頭に頼行、三河(藤原忠通家女房。千載集入集)、皇后宮美濃(金葉集入集)らの子女を勅撰和歌集や私家集などに名を留める歌人に育て上げている。

 

そんな仲政の一端を示すものとして、勅撰和歌集『詞花集』の「雑」から、彼の父・頼綱とも親交のあった当時の歌壇のリーダー源俊頼(※)との贈答歌を採りあげたい。

 

下総の守にまかれりけるを はてゝのぼりたりけるころ源俊頼朝臣に遣しける 源仲政

〔あづま路の八重の霞をわけきても 君にあはねばなほへだてたる心地こそすれ〕    

 

返し  源俊頼朝臣

〔かきたえしまゝのつぎはしふみゝれば へだてる霞もはれてむかへるがごと〕

 

(※)源俊頼(みなもとのとしより):平安期後期の歌人。大納言経信の息子。俊恵の父。白河法皇院宣で『金葉和歌集』を撰した。『金葉和歌集』以下の勅撰集に二百余首入集。歌論書『俊頼髄脳』、家集『散木奇歌集』を著す。

 

参考文献:『人物叢書 源頼政』多賀宗隼 日本歴史学会編集 吉川弘文館

新古今の景色(27)院政期(2)源頼政(2)文武両道・源頼光の玄孫

平安時代に台頭した武士階級の中でも早くから京に昇り、いち早く公家貴族と積極的な接触を図り、強い絆を築いたのは源満仲の子の頼光・頼信ら清和源氏であった。

 

清和源氏源頼政の直系略図】 源満仲→頼光→頼国→頼綱→仲政→頼政→仲綱

 

なかでも源頼光が進出した頃の中央政界は、藤原道長の全盛期で、道長の娘で一条天皇に入内した上東門院のサロンは、パトロンである道長の財力によって紫式部和泉式部赤染衛門などを擁して絢爛たる後宮文化が咲き誇っていた。

 

そうは云っても当時の都は、内裏や館を一歩出れば放火・殺傷・強盗など百鬼夜行が日常で、皇族や摂関家と云えども身辺警護に武士を伴わなければ外出もままならず、そのうえ、当時から武装化を強めて朝廷を悩ませていた寺社勢力の僧兵を制圧するためにも中央政界は武士の力を必要としていたのである。

 

そんな中で、藤原道長の土御門邸が火事で焼失して新築に及んだ時、源頼光が家具一式を献納して周囲を驚かせているが、その財源は但馬・美濃・伊予・摂津など豊かな任地の受領を歴任して蓄えたもので、この任用自体が道長の頼光への配慮を示していた。清和源氏は早くから摂関家に密着していたのである。

 

その頼光は、大江山酒呑童子や土蜘蛛胎児の伝説で知られる武勇だけでなく、歌人としても広く知られ、宮廷歌人に伍して勅撰集『拾遺和歌集』には、 

 

女のもとに遣しける  源頼光朝臣

〔なかなかに云ひも放たでしなのなる 木曾路のはしのかけたるやなど〕 

女をかたらはんとて めのとのもとに遣しける 源頼光朝臣

〔かくなんとあうのいさりびほのめかせ いそべの波のおりもよからば〕

 

の2首が入集し、その他に『金葉和歌集』で連歌が、『後拾遺和歌集』で1首入集している。

 

参考文献:『人物叢書 源頼政』多賀宗隼 日本歴史学会編集 吉川弘文館

 

新古今の景色(26)院政期(1)源頼政(1)勅撰和歌集の常連

鴨長明が『無名抄』(55.俊成入道の物語、56.頼政歌道に好けること)で述べているように、当時最高の歌人であった藤原俊成と俊恵から歌人として大いなる賛辞を受けた源頼政の歌は従三位(じゅうさんみ)頼政の名前で『新古今和歌集』に次の3首が採られている。

 

【巻 第三 夏 歌 267 夏ノ月をよめる】

庭の面(おも)は まだかわかぬに 夕立の 空さりげなく 澄める 月かな

(現代語訳:庭の面はまだ乾いていないのに 夕立を降らせたことはうそのような空に、さりげない様子で澄んだ月がでているよ)

 

【巻 第四 秋歌上 329 題しらず】

狩衣(かりごろも) われとは摺(す)らじ 露しげき 野原の萩の 花にまかせて

(現代語訳:自分では狩衣に模様を摺りつけまい。露の滋く置いている野原の萩の花がおのずと摺り模様となるのに任せて)

 

【巻 第四 秋歌上 387】  

こよひたれ すず吹く風を 身にしめて 吉野の嶽(たけ)の 月を見るらむ

(現代語訳:今宵いったいどのような人がすず竹を吹く風を身にしみじみと感じながら 吉野の高嶺に照る月を見ているのであろうか)

 

また、源頼政が卓越した歌人であったことは、崇徳院の宣旨により藤原顕輔が撰集した『詞花集』に始まり、『千載』『新古今』『新勅撰』『続後撰』『続古今』『続拾遺』『新後撰』『玉葉』『続千載』『続後拾遺』『風雅』『新千載』『新拾遺』『新後拾遺』を経て後花園天皇の命により飛鳥井雅世が撰集した『新続古今』に至る16の勅撰集に58首が採用されていることからも明らかで、この事は武人でありながら第一級の歌人としても名を馳せた稀有な存在と云える。

 

参考文献:『人物叢書 源頼政』 多賀宗隼 日本歴史学会編集 吉川弘文館

     『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社

新古今の景色(25)女房文学(18)赤染衛門(10)長寿の生涯歌人

長和元年(1012)2年ばかり病に伏していた夫の大江匡衡が61才で世を去り、この時赤染衛門は56歳であったが、宮廷ではおしどり夫婦として「匡衡衛門」と呼ばれる程仲睦まじかった夫を失ったのを機に出仕を辞し、落飾して信仰に生きながら母親として、歌人として、長寿を全うした。

ここでは、晩年の赤染衛門の母として、歌人としての足跡を辿ってみたい。

 

匡衡の死後1~2年を経た頃に夫を偲んで詠んだ歌

   大江匡衡みまかりて又の年の暮花をみてよめる

【こぞの春ちりにし花も咲にけり 哀れ別れのからましかば】(詞花)

 

   上東門院にまいりて一条院に匡衡御書きをしへたてまつりし程のことなど

   昔物かたり啓してまかりけるあしたにたてまる

【いととしく又ぬれそひし袂かな 昔をかけておちし涙に】

   かへし(上東門院)

【うつつとも思ひわかれて過ごす哉 みし世の夢を何語りせん】

 

寛仁2年(1018)後一条天皇の御世、息子・大江挙周(たかちか)が和泉守に補される除目に先だって息子の出世を望んでかつての主の道長の妻倫子に贈った歌、

【思へ君かしらの雪をうち払ひ きえぬさきにと急ぐ心を】 

 

その後、息子の挙周が和泉守を去るとき病に倒れ、母親の気持ちを読んだ歌

【代はらむと思ふ命はをしからで さてもわかれむことぞかなしき】(詞花)

 

寛仁4年(1020)娘の一人を亡くして逆縁のかなしみを

   むすめなくなりたりしに服すとて

【我がためにきよと思ひしふぢごろも 身にかへてこそ悲しかりけり】 

 

長元6年(1033)赤染衛門が77歳の時、後一条天皇が催した道長の妻・鷹司殿倫子の七十の御賀の屏風歌を関白頼通に召されて8首詠じた歌から、

   たかつかさ殿のうへの御賀関白殿のせさせたまふとて  

  臨時客

【むらさきの袖をつらねてきたるかな 春たつことはこれぞ嬉しき】(後拾遺)

  子日

【万世のためしに君がひかるれば 子の日の松もうらやみやせむ】(詞花)

 

長元8年(1035)5月16日、関白藤原頼通が主催した賀陽院水閣歌合(かやのいんすいかくうたあわせ)で、80歳の老尼の赤染衛門は、藤原公任、能因、相模ら錚々たる10人の歌人と共に出席、この時の女性の出詠は赤染衛門と相模の二人だけであった。  

 

そして、歌合という公の場での赤染衛門が最期に確認されたのは、長久2年(1041)後朱雀天皇の御世の弘徽殿女御十番歌合の出詠で85歳であった。

また、同年に曾孫大江匡房が誕生し、その喜びを家集「赤染衛門集」から、

〔雲の上にのぼらむまでもみてしかな、鶴の毛衣年ふとならば〕

 

その5年後の永元元年(1046)に息子・挙周が没したが、息子の死を嘆く歌は確

認されていないので、赤染衛門はそれ以前に没したと思われる。

 

参考文献 『日本歌人講座 第二巻 中古の歌人久松潜一・實方清 編   

新古今の景色(24)女房文学(17)赤染衛門(9)栄華を支えた共稼ぎ(2)

ここで、藤原道長が詠じたとされる「この世をば 我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思えば」の望月の栄華について述べておきたい。

摂関期に道長が目指したのは関白ではなく摂政の地位であった。関白の機能は天皇へ助言する事にあるが、摂政は幼い天皇や病気の天皇に代わって政務を執り行う機能を有し従来は皇族が担っていたが、清和天皇の母方の祖父・藤原良房が9歳の清和天皇に代わって政務を執り行い、貞観元年(866)に初めて皇族以外で摂政に任命され、その後も良房は成長した孫の天皇に代わって死ぬまで国政を執り行なった。

この事は、天皇家に生まれなくても摂政になれば天皇の代理として天皇と同じ権力を行使できる道が開けた事を意味し、その後の高級貴族はこぞって摂政を目指すことになった。

が、そのためには

①娘を得て、②天皇に入内させ、③娘が天皇に愛されて皇子を出産する、

というプロセスを踏む必要があるが、天皇の年齢に見合った娘を得られるか、また娘が天皇に寵愛されても皇子を出産するか、などの偶然が大きく影響することは、道長の妻倫子の父で、宇多天皇の曾孫に当たる左大臣源雅信が、娘を天皇の后にと育てたものの一条天皇よりかなり年上で断念せざるを得なかった事にも表れている。 

史実を見ても、藤原良房の後、道長の父・兼家が娘の詮子を円融天皇に入内させて一条天皇の外祖父摂政を実現するまで120年もの時間を経ている。

それを考えると、相次ぐ二人の兄の急死という強運と、権力への執着に基づく策略を行使して、三条天皇の后に次女の妍子立后させ、崩御した一条天皇の遺志を無視して三条天皇を譲位に追い込み、一条天皇と自分の娘彰子の間に生まれた外孫の後一条天皇を即位させるという、天皇の指名権を行使した上で、即位した後一条天皇中宮に三女威子を立后させて、娘三人を天皇の后(一家三后)に据えた道長が築いた栄華はまさに望月といえる。

 

さて、藤原道長という希代の権力者に仕えた赤染衛門、夫・大江匡衡と息子の拳周は、主が築く栄華への過程で以下に見るようにそれぞれの役割を果たしている。

寛弘5年(1008)9月11日に中宮彰子が皇子出産し、翌日の皇子の夕べの沐浴時には、赤染衛門の息子の挙周が漢籍を読み聞かせ、10月4日には、一条天皇の命により大江匡衡が皇子に「敦成(あつひら)」と名付けている(後の後一条天皇)。

この功績に拠ったのか、その後に息子挙周が丹波守に補任されている。

 

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紫式部日記絵巻―中宮出産産養いの場面』「美麗院政期の絵画展」カタログより

 また、11月頃には、誕生後初めての敦成親王の内裏還啓にちなんで御冊子作りの事務方を赤染衛門が務めている。当時の道長中宮彰子の後宮を文化サロンと位置づけて物語作りに力を入れており、その中心を中宮彰子と前々年に出仕を始めた紫式部が担い、赤染衛門は紙や筆の調達などの裏方を担った。 

さらに翌年の寛弘6年(1009)11月25日に中宮彰子は二番目の皇子を出産し、12月14日には再び大江匡衡が新皇子に「敦良(あつなが)」と名付ける役を果たしている(後の後朱雀天皇)。

 

参考文献 『日本歌人講座 第二巻 中古の歌人久松潜一・實方清 編

     『ビギナーズ・クラシックス 御堂関白』繁田信一編 角川ソフィア文庫  

     『ビギナーズ・クラシックス 紫式部日記』山本幸子編 角川ソフィア文庫  

新古今の景色(23)女房文学(16)赤染衛門(8)栄華を支えた共稼ぎ(1)

赤染衛門が出仕した左大臣源雅信が長女倫子の夫として不承不承認めた藤原道長は、長兄の中関白道隆の死、直後に関白を引き継いだ次兄道兼の急逝、および日頃から道長に目をかけていた姉で一条天皇生母東三条院詮子の支援を受けて急速に権力の頂点に上り詰めて行く。

 

ここでは、望月の栄華を目指す野心家の藤原道長とその一族を支えた赤染衛門大江匡衡夫婦の歩みを二回に分けて跡付けてみたい。

 

永年2年(988) 藤原道長と倫子の間に長女彰子誕生

永祚元年(989) 大江匡衡文章博士に補される(38才)、赤染衛門33才

正暦元年(990) 1月藤原道長の長兄道隆の長女定子一条天皇に入内

正暦4年(993) 5月藤原道隆摂政となり中関白と称す

長徳元年(995) 4月10日 中関白藤原道隆没、直後に道長の次兄道兼が関白を賜るも5月に急逝、6月に道長が右大臣を賜り、妻倫子は鷹司殿と称される

長徳2年(996) この頃から赤染衛門(40歳)は鷹司殿倫子に出仕 

長保元年(999) 道長の長女彰子12才で一条天皇に入内      

長保2年(1000)藤原彰子中宮立后           

          赤染衛門の息子挙周(たかちか)が文章博士に補され、息子が

初めて殿上を許された母の喜びを次のように詠む

 大江挙周はじめて殿上を許されて草ふかき庭におりて拝しけるをみ侍りて

  草わけて立ち居る袖のうれしさに 絶えず涙の露ぞこぼるる(新古今18 雑下)

 

また、その挙周が除目に漏れた時の落胆の気持ちを次のように詠む

 大江挙周司めしにもれて嘆き侍りける頃梅の花を見て

  思ふことはるとも身には思はぬに 時知り顔に咲ける花かな

 

長保3年(1001)大江匡衡尾張守に補されて夫婦で任地に下向する道すがら、夫婦で次の歌を詠む

  大江匡衡:みやこいでて 今日ここぬかになりにけり

  赤染衛門:とをかの国にいたりしかな

 

寛弘元年(1004)大江匡衡任地を終えて上京し、赤染衛門は再び倫子に出仕するが、この頃から中宮彰子の若い女房集団の世話役を担う       

寛弘2年(1005)この頃に紫式部中宮彰子に出仕

寛弘3年(1006)息子挙周蔵人に補される。

 

参考文献 『日本歌人講座 第二巻 中古の歌人久松潜一・實方清 編

 

新古今の景色(22)女房文学(15)赤染衛門(7)道長との贈答歌

 

私家集大成所収の榊原家本の『赤染衛門集(1)』には、藤原道長赤染衛門の次のような贈答歌が収められている。 

       花さかりに雨いみしくふりしころ、

       御前の花いかならんと思ひて殿にまいらせし

420 ちりやすきあめにやうつる桜はなみるまの色をたれにとはまし

       とのの御前御返し

421 またちらて雨ににほへる花かさを人にはといてきても見よかし

       たち帰まいらせし

422 さしはへて君にもとはぬ花かさをいかてか雨のふりてきつらむ

       またおほせられたる

423 いはねともみゝなれにたる春雨にはなのことはゝふりにこそふれ

    

この贈答歌を見ると主従にしてはかなり親密に思われるが、私家集『御堂関白集』によよると、道長の一家は家族のみならず女房たちを含めた主従間においても、日常のコミュニケーションに和歌が用いられた事が記されている。因みに『新古今和歌集』に道長の歌は5首採られている。

 

ところで藤原道長赤染衛門の繋がりは、赤染衛門が出仕していた左大臣源雅信の長女倫子が道長と永延元年(987)に結婚した事に始まる。その当時倫子は24歳、道長は22歳であった。

 

倫子を将来の天皇の后として育てていた源雅信は、青2才で嘴の黄色い道長の求婚を快く思っていなかったが、前年の寛和2年に数え年7才で践祚した一条天皇は幼くて倫子に釣り合わず、道長の将来性を見抜いた妻・藤原穆子の進言を渋々受け入れて二人の結婚を認めたとされる。

 

この結婚により道長正室となった倫子は鷹司殿と呼ばれ、赤染衛門は倫子に出仕することとなった。

 

赤染衛門の夫選びといい(https://k-sako.hatenadiary.jp/entry/2019/11/19/091803)、

倫子の夫選びといい、通い婚時代の平安貴族の娘の夫の選択眼はどうやら母親の方が優れていたようだ。

 

他方で、結婚以後の赤染衛門大江匡衡夫婦の出来事としては、貞元2年(977)に長男挙周(たかちか)が誕生し、天元5年(982)には大江匡衡検非違使の宣旨を受けた事が挙げられる。

 

参考文献:『日本の作家10 王朝の秀歌人 赤染衛門』 上村悦子著 新典社

     『日本歌人講座 第二巻 中古の歌人』 久松潜一・實方清 編