清和源氏の源頼光の曾孫に当る頼政の父・仲政(仲正とも書く)の生没年は未詳だが、三河守頼綱を父として治暦2年(1066)頃生まれ、崇徳天皇御世の保延3年(1137)以後に没したとみられる。
【清和源氏・源頼政の直系略図】 源満仲→頼光→頼国→頼綱→仲政→頼政→仲綱
仲政の武士としての動静や事績はつまびらかではないが、堀河天皇の応徳3年(1086)の蔵人所雑色を皮切りに嘉保2年(1095)に六位蔵人、永長元年(1096)に検非違使に補され、その後は皇后宮大進を経た後下総守に任じられて下向し、さらに下野守を経て従五位上兵庫頭に至っているが、この背景には摂関家や白河院及び鳥羽院の信任があったとされる。
仲政はこれらの任務の傍ら、藤原俊忠・家成・顕広(後の俊成)などの中級貴族と歌による親交を深めて歌合に連なり、その傍らで頼政を筆頭に頼行、三河(藤原忠通家女房。千載集入集)、皇后宮美濃(金葉集入集)らの子女を勅撰和歌集や私家集などに名を留める歌人に育て上げている。
そんな仲政の一端を示すものとして、勅撰和歌集『詞花集』の「雑」から、彼の父・頼綱とも親交のあった当時の歌壇のリーダー源俊頼(※)との贈答歌を採りあげたい。
下総の守にまかれりけるを はてゝのぼりたりけるころ源俊頼朝臣に遣しける 源仲政
〔あづま路の八重の霞をわけきても 君にあはねばなほへだてたる心地こそすれ〕
〔かきたえしまゝのつぎはしふみゝれば へだてる霞もはれてむかへるがごと〕
(※)源俊頼(みなもとのとしより):平安期後期の歌人。大納言経信の息子。俊恵の父。白河法皇の院宣で『金葉和歌集』を撰した。『金葉和歌集』以下の勅撰集に二百余首入集。歌論書『俊頼髄脳』、家集『散木奇歌集』を著す。