新古今の景色(8)女房文学(1)摂関期は後宮女房文化の時代

先回の『新古今和歌集』入集歌人の中から享年が70歳以上の女性歌人10人を拾い上げたところ以下の6人の女房歌人が含まれていることが浮かび上がってきた。

  

  俊成卿女     82歳 29首  俊成の孫、後鳥羽院女房  

  赤染右衛門    80歳 10首  大江匡衡妻、

                    道長妻倫子及び上東門院女房

  小侍従      80歳  7首  石清水別当の娘、

                                                                        二条院・高倉院女房

  二条院讃岐    76歳 16首  源頼政娘、二条院女房  

       美福門院加賀   70歳  1首  定家の母、美福門院女房

  慇富門院大輔   70歳 10首  後白河院皇女慇富門院女房       

 

かねてから私は『女房文学』に関心をいていたので、これを機会に、古代から中世に変わる過渡期に何故日本に世界でも希な「女房文学」が存在したのか、少し掘り下げてみたい。

 

ところで女房には内裏女房、中宮女房、内親王(斎院・斎宮)女房等があるが、女房文学興隆期の摂関期は、下記のように一条天皇後宮であった定子中宮と彰子中宮後宮サロンが女房文化の中心であった。

 

一条天皇中宮定子サロン

        ・清少納言(『枕草子』)

 

一条天皇中宮彰子サロン

         ・紫式部(『紫式部日記』『源氏物語』)

         ・和泉式部(『和泉式部日記』『和泉式部集』)

         ・娘小式部(和泉式部の娘)

         ・赤染衛門(『赤染衛門集』『栄華物語』正編集者)

 

 

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枕草子絵~呉竹の場面』日本の美術48号白描絵巻」至文堂より

 

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紫式部日記絵巻~藤原道長が式部の局を訪う場面』「美麗院政期の絵画展」カタログより

 

参考文献:『異端の皇女と女房歌人』 田渕句美子著 角川選書

 

 

 

新古今の景色(7)長寿な女房歌人

ここまで『新古今和歌集』入集歌人をとりあげてゆくとやはり女性歌人にも目を向けなくてはならないだろうと思い、以下に享年が70歳以上の女性歌人10人を入集数と共に拾い上げてみた。

 

  1 上東門院彰子   87歳  5首 道長の娘、一条天皇中宮     

  2 成尋阿闍梨の母  82歳  1首 入唐僧の母

  3 俊成卿女     82歳 29首 俊成の孫、後鳥羽院女房

  3 陽明門院禎子   82歳  1首 後朱雀天皇皇后    

  5 赤染衛門     80歳 10首 大江匡衡妻、

                     道長妻倫子及び上東門院女房

  5 小侍従      80歳  7首 石清水別当の娘、

                     二条院・高倉院女房

  7 二条院讃岐    76歳 16首 源頼政娘、二条院女房

  8 選子内親王    72歳  1首 村上天皇皇女、斉院     

  9 美福門院加賀   70歳  1首 定家の母、美福門院女房

  9 慇富門院大輔   70歳 10首 後白河院皇女慇富門院女房   

 

この一覧からとりわけ目を惹くのは、俊成卿女、赤染衛門、小侍従、二条院讃岐、美福門院加賀、慇富門院大輔の6人の女房歌人である。そして定家の母で父俊成とのラブラブの相聞歌で『新古今和歌集』に一首採られた美福門院加賀を除いて、5人の女房歌人は揃って専門歌人として高い評価を得ていた。

 

そんな彼女たちの詠草スタイル、あるいは当時の歌壇の評価については、鴨長明が『無名抄』の「65 大輔・小侍従一双のこと」、「66 俊成卿女・宮内卿 両人歌の詠みやうの変はること」、「70 式部・赤染勝劣のこと」で見事に活写している。

 

その中で興味深いものを挙げると、まずは「66 俊成卿女・宮内卿 両人歌の詠みやうの変はること」で、俊成卿女と比較された宮内卿後鳥羽院の期待に応えようと頑張りすぎて結局命を縮めて20歳になるかならないで夭折し、82歳過ぎまで長寿を全うした俊成卿女と際だった対照を見せている。

 

次には、「70 式部・赤染勝劣のこと」で、後世の私達にとっては和歌の名手として圧倒的に高い評価を受けているのは和泉式部であるが、当時の歌壇では、数々の歌合わせで赤染衛門は常に和泉式部よりも高く評価されたただけでなく、和泉式部は選から漏れる事も度々であったとされる。

どうやら和泉式部への評価は歌の出来不出来よりも、二人の兄弟親王と浮き名を流した「浮かれ女」としての身持ちの悪さが、身持ちの正しい赤染衛門との対比でマイナスに作用していたようだ。

 

とは云え、和泉式部は上東門院の女房として、赤染衛門道長室倫子と上東門院の女房として仕えて、共に後宮の文化サロンを重視した道長の庇護を受けたのであった。当時は摂関家が和歌文化のパトロンであった。

 

それに対して、俊成卿女、小侍従、二条院讃岐、慇富門院大輔は新古今歌壇を代表する女房歌人であった。その中で、小侍従、二条院讃岐、慇富門院大輔が、鴨長明が師と仰ぐ俊恵が催す歌林苑(※)の会衆であったことは興味深い。

  

(※)歌林苑:六条源家の俊恵が自らの白川の僧坊に開いた歌会のグループの総称。保元元年(1156)頃から約20年間に亘り、藤原清輔、源頼政藤原隆信、賀茂重保、寂蓮、鴨長明、二条院讃岐、小侍従、殷富門院大輔などが集った。会の中心は地下の僧俗にあり、月例の歌会の他、会衆(メンバー)の送別の会、人麿影供など臨時の歌会もしばしば催された。

 

参考文献:『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社 

     『無名抄』鴨長明 久保田淳訳注   角川ソフィア文庫

新古今の景色(6)子女の長寿が築いた「望月の栄華」

ところで『新古今和歌集』の著者略歴から長寿者をピックアップしているうちに藤原道長の子女の長命さに目を留めることになった。

 

藤原道長        62歳 5首  摂政太政大臣従一位  

上東門院彰子(娘)   87歳 5首  一条天皇中宮

                    後一条天皇後朱雀天皇の母、

                    後冷泉天皇後三条天皇の祖母  

藤原頼通(息子)    83歳 1首  関白太政大臣従一位  

陽明門院禎子内親王(孫)82歳 1首  三条天皇の皇女、後朱雀天皇皇后   

藤原頼宗(息子)    73歳 2首  右大臣従一位 

 

藤原道長自身は62歳で病没しているが当時としては長寿と云えるのではないか。しかも娘の上東門院とともに『新古今和歌集』に5首も入集していることは、和歌所寄人を務めた内大臣源通親の6首入集と比較しても遜色が無く、和歌の才能に秀でていたことを示している。 

道長の家集『御堂関白集』は道長の歌と明記された7首を含めて、妻倫子、娘の中宮彰子と妍子、息子の頼宗、道長家や中宮の女房や近親、親交のある人など道長を巡る人々と交わした歌74首の歌が収められており、日常生活と和歌が溶け込んでいたことを示している。

 

しかしここで取り上げたいのは87歳の長寿を保った娘・上東門院彰子の存在である。彼女は一条天皇中宮であり、妹・妍子の夫の三条天皇の義姉であり、後一条天皇後朱雀天皇の母であり、後冷泉天皇後三条天皇の祖母として、32歳で崩御した一条天皇亡き後5代の天皇の後見として重きをなしていた。 

まさに、この上東門院の存在があってこそ、道長天皇外戚としての地位をフルに活用して、天皇の後継を自らが指名するという絶大な権力を手中にし「この世をば 我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」の栄華を築く事が出来たのであった。

 

ところが道長の息子の頼通にとっては、自らが外戚となる後冷泉天皇に皇子が誕生しなかったことから、何としても認めたくなかった生母が道長の外孫の陽明門院腹の皇子が後三条天皇に即位することになり、これ以降は上皇天皇の頭越しに統治する院政に向かってゆく事になる。

 

参考文献:『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社     

     『國文學 2005年4月号~平安時代の文学とその臨界』 學燈社

新古今の景色(5)長命な歌道家(3)御子左家(2)天才歌人と天才絵師の母

  藤原 俊成       91歳  皇太后太夫従三位        72

       定家(俊成の息子) 80歳  権中納言正二位          46 

  美福門院加賀(定家の母) 70歳  美副門院女房              1

  藤原隆信(加賀の息子)  64歳  右京権太夫正4位下        3

 ここでは「新古今和歌集」に1首入集した藤原俊成の妻で定家の母・美福門院加賀について述べたい。

 

俊成と情熱的な恋で結ばれる前の美福門院加賀には出家して寂超となった先夫藤原為経との間に藤原隆信をもうけていて、俊成は信隆を手元に引き取って育てていた。 

その隆信は若い時には寂連と並びたつ歌人であったが、晩年は和歌所寄人に選ばれながら『新古今和歌集』にわずか3首の入集という不面目に終わるが、歌人としては『千載和歌集』以下の勅撰集に67首入集し、家集『隆信朝臣集』『藤原隆信朝臣集』を著している。 

ところで隆信の才能は和歌よりも絵の方にあったようで、似絵(肖像画)の名手として当時の宮廷で存在感を発揮し、神護寺蔵『国宝 伝源頼朝像』を初めとする肖像画を遺している。(http://k-sako.hatenablog.com/entries/2015/05/15

 

さらには、隆信の息子の信実も似絵の名手となって、承久の乱で敗れて配流となった後鳥羽院の求めに応じて出家前の姿を描いた『国宝 後鳥羽天皇像』(水瀬神宮蔵)を初め、佐竹本『三十六歌仙』などの作品を描き、当時の宮廷で似絵師の一派を形成した。

 

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 『国宝 後鳥羽天皇像』(水無瀬神宮蔵)

「特別展 美麗 院政期の絵画」カタログより

 

信実も父隆信同様に歌人の才能を有しており、叔父・藤原定家の後ろ盾を得て『新勅撰和歌集』以下の勅撰集に132首入集している。

 

このように、藤原俊成の妻の美福門院加賀は、定家と隆信の二人の天才息子に囲まれて幸せな晩年を過ごしたようだ。

              

 参考文献:『新潮日本古典集成 新古今和歌集 上・下』久保田淳 校注

新古今の景色(4)長命な歌道家(3)御子左家(1)後鳥羽院歌壇をリード

 御子左家は藤原俊成とその息子定家の確立した和歌の師範の家筋。俊成は古今集の正調を継ぎながら幽玄美を追求し、定家は父の歌学をさらに発展させ、慈円、藤原良経とともに新古今風を確立して清輔・顕昭などの六条藤家を圧倒した。

 

因みに御子左とは、藤原道長の第六子・長家が御子左第(醍醐天皇の皇子の兼明親王の旧邸)に住んだため、その家系は代々この名で呼ばれた。御子左家から『新古今和歌集』に入集した70歳以上の長命な歌人とその入集数は以下の通り。

 

藤原 俊成         91歳  皇太后太夫従三位    72 

 〃 定家(俊成の息子)  80歳  権中納言正二位      46 

美福門院加賀(定家の母)  70歳  美福門院女房        1 

俊成卿女(俊成の孫)    82歳  後鳥羽院女房       29

               

藤原俊成は歌学の師藤原基俊(※1)と尊敬する歌人源俊頼の両者の粋をとり入れた清新温雅な、幽玄体の歌風を樹立し、数多の歌合で判者を務め当時の歌壇で指導的な役割を果たして、後白河院の命により『千載和歌集』を撰して歌道家「御子左家」を築く。『新古今和歌集』以下の勅撰集に400余首入集。家集『長秋詠藻』を著す。また、式子内親王のために歌論書『古来風躰抄』を著した。

 

藤原定家は『新古今和歌集』の撰者の一人を担い、後には後堀河天皇の勅命を受けて『新勅撰和歌集』(※2)の単独撰者を務めた。若年より父・俊成の後継者として認められ、幽玄華麗・巧緻な歌風を展開して良経・慈円らと共に新古今歌人の代表的な存在となった。家集『拾遺愚草』他、歌論書『近代秀歌』『毎月抄』『詠歌之大概』、日記『明月記』などを著し、『小倉百人一首』撰者として現在も有名である。

晩年は歌学者としても活躍し『源氏物語』『古今和歌集』『土佐日記』などの古典の刊本あるいは写本を較べ合わせて、誤りを正し、またはその異同を調べて原本の形を再現することに心を砕いた。

 

美福門院加賀については次回に陳べる。

 

俊成卿女は祖父俊成の養女となり、内大臣源通親の息子・通具の妻となった。22~23歳頃に和歌の才能を認められて後鳥羽院に出仕して優艶微細な歌風で新古今時代の代表的な歌人の一人となる。晩年に出家して越部禅尼と称し『越部禅尼消息』では叔父定家の撰集した『新勅撰和歌集』の歌風を痛烈に批判している。

家集『俊成卿女集』を著し、最古の物語評論『無名(むみょう)草子』の作者とされている。『新古今和歌集』以下すべての勅撰集に入集している。

 

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  俊成と定家『芸術新潮1997年9月号』より

 

(※1)藤原基俊:平安期後期の歌人源俊頼とともに院政期の歌壇における指導的立場にあった。歌風は保守的で優雅だが創造性に欠けていたとされる。『金葉和歌集』以下の勅撰集に百首入集。詩歌撰集『新撰朗詠集』を著す。

 (※2)『新勅撰和歌集』:後鳥羽・順徳両院をはじめとする承久の乱関係者の歌は除かれ、九条、西園寺などの親幕派と武家の歌が優遇され、歌風は新古今の余情妖艶から退き三代集(古今和歌集後撰和歌集拾遺和歌集)の歌風に戻っているとされる。

       

参考文献:『新潮日本古典集成 新古今和歌集 上・下』久保田淳 校注

新古今の景色(3)長命な歌道家(2)六条藤家

「六条藤家」は白河法皇の乳母子として権勢をふるった藤原顕季を祖とする歌道の家で、その顕季は宮廷歌壇の庇護者となり、人麻呂影供(※1)を創始してその継承を広めつつ「歌の家」を確立して顕輔・清輔・顕昭らを輩出した。 

顕季の息子で清輔の父でもある顕輔(享年66歳、左京太夫正三位)は崇徳上皇院宣により『詞華和歌集』を撰進し、家集『顕輔集』を著した。 

「六条藤家」の70歳以上の長命を保った歌人とその『新古今和歌集』入集数は次の通り。

 

 藤原清輔(顕輔の息子)   享年74歳 大皇太后宮大進従4位下   12首 

 顕昭(顕輔の猶子)                 79歳  法橋                 2 

 藤原季経(清輔の弟)      91歳  宮内卿正三位        1

 

しばしば御子左家の藤原俊成と相対した藤原清輔は、『続詞華和歌集』を撰集するも二条天皇崩御に伴い勅撰和歌集に至らなかった。その後は九条兼実に引き立てられ九条家で催される歌会・歌合の指導者となったが、治承元年(1177)に没した後は藤原俊成九条家歌壇の指導者の位置を得て、六条藤家は斜陽化していった。歌論集『奥義抄』『袋草紙』、家集『清輔朝臣集』を著す。『千載和歌集』以下の勅撰集に94首入集。

 

清輔の義弟の顕昭は博覧宏識の歌人・歌学者で六条家歌学の中心をなした。 [六百番歌合]における藤原俊成の判詞を批判して争った『六白番陳状(顕昭陳状)』は有名。『古今集註』『袖中抄』など考証注釈の著作多数。『千載和歌集』以下の勅撰集に42首入集。

 

後鳥羽院歌壇の幕開けとなる『正治初度百首』に内大臣源通親の肩入れで何とか名を連ねた清輔の弟・季経だが、後鳥羽院への直訴にもかかわらず『新古今和歌集』選者はおろか和歌所寄人にも任命されず、家と自らの行く末を悲観して出家をしたが91歳まで長命を保った。家集『季経入道集』を著す。

 

(※1)人麻呂影供(ひとまろえいぐ):1118年藤原顕季によって創始された、歌聖柿本人麻呂を祭る儀式。歌人たちは人麻呂を神格化し肖像を掲げて和歌を献じることで和歌の道の跡を踏もうとした。鎌倉時代以降は歌合と組み合わせた「影供歌合」として歌壇の行事として定着し近世に至るまで続けられた。

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『柿本人麿像』伝土佐広周筆 根津美術館蔵 「芸術新潮2018年9月号」より

          

参考文献:『新潮日本古典集成 新古今和歌集 上・下』久保田淳 校注

新古今の景色(2)長命な歌道家(1)六条源家

『新潮日本古典集成 新古今和歌集 下』巻末の著者略歴を一覧して見えてきたのは、総じて歌道家(歌の家)の一族の長命さである。

 

ここでの歌道家(歌の家)とは、中世に宮廷の諸領域で形成された「家」の一つで、歌道家天皇上皇の命を受けて勅撰和歌集の撰者となって撰進を行うとともに、宮廷和歌の指導者として位置づけられる家であり、天皇上皇の文化支配を支える家である。

 

まずは、白河法皇院宣により太治2年(1127)年頃に成立した『金葉和歌集』の単独撰者を務めた源俊頼の「六条源家」から始めたい。

 

「六条源家」とは、藤原顕輔の興した「六条藤家」に対して称されたもので、源経信・俊頼・俊恵に連なる「歌の家」を指す。六条源家の70歳以上の長命を保った歌人と『新古今和歌集』入集数は次の通り。

 

  源経信        享年82歳     大納言太宰権帥正一位   19首

 

  〃俊頼(経信の息子)  〃75歳     木工頭従4位上      11首

 

  俊恵(俊頼の息子)   〃72歳(推定) 東大寺の僧         12首

 

「六条源家」の祖となる源経信は、後一条天皇から堀河天皇までの六朝に仕え、音楽・詩・歌のいずれにも優れて藤原公任と共に三船の才と称された。『後拾遺和歌集』以下の勅撰集に86首入集し、家集『大納言経信集』を著した。

 

経信の息子の俊頼は、堀河天皇のもとで歌壇の指導者となり、「堀河百首(※1)」を企画して成功をおさめ組題百首の流れを定着させた。さらに白河院の命により勅撰集『金葉和歌集』を撰進した。

著作面では、関白忠実の娘で鳥羽院皇后の高陽院の和歌の手引書として著した歌論書『俊頼髄脳』が当時の歌壇に大きな影響を与え、家集『散木奇歌集』を著した。

金葉和歌集』以下の勅撰集に200余首入集しているが、特に『千載和歌集』では最多の52首が採られ、選者の藤原俊成から高く評価された。

 

俊頼の息子の俊恵は17歳で父と死別して東大寺の僧となり、白河の自坊を歌林苑(※2)と称して、僧侶・下級貴族・女房など広い層にわたる多くの歌人が自由な雰囲気で歌を詠む一種の歌壇を形成した。鴨長明の師であり、藤原俊成・定家親子の御子左家とは異なった形で新古今歌風の樹立に影響を与えた。

『詞華和歌集』以下の勅撰集に49首入集し、家集『林葉和歌集』を著した。

 

(※1)堀河百首:百首歌。一題一首、全百題を多人数で詠んだ最初の組題百首和歌。歌題は大江匡房、詠者は藤原公経、源俊頼など16名。中世和歌に大きな影響を与えた。

 

(※2)歌林苑(かりんえん):俊恵が白川の僧坊に開いた歌会グループ。1156年頃から約20年間に亘って、源頼政藤原隆信・賀茂重保・鴨長明・寂連・小侍従・二条院讃岐・殷冨門院大輔など地下の僧俗を中心に月例の歌会のほか会衆の送別の歌会をしばしば催した。

 

 

参考文献:『新潮日本古典集成 新古今和歌集 上・下』久保田淳 校注 

     『新古今和歌集 後鳥羽院と定家の時代』田渕句美子 角川選書